Paul Auster "Mr Vertigo" 263~278p  -10 読了

空中浮遊といえば,つい座禅を組んで息張った麻原某の姿を思い出してしまうのだが,ウォルトは身体を水平に保って移動したり,水上を歩いて見せることまでできたという。だが,そのために彼は9歳から11歳までの2年間,小指を失うほどの凄まじい修行を行った。しかも,その代償として奇跡を起こせた期間は,第二次成長期に突入するまでのたったの3年だけ。さらに,その貴重な期間すら伯父の妨害によって短縮させられてしまうのだ。飛べなくなった彼とマスターの手元に残ったのは,わずか2万7千ドルだった。
言うまでもなく,奇蹟の人として過ごした栄光の期間よりも,それ以前それ以降の方が遥かに長く,金目の話で考えても,これだけの犠牲を払って手に入れられるものよりも,ウェザースプーン夫人が株で儲けた金やウォルト自身がシカゴで手に入れた富の方がよほど大きい。それでも・・。妻とウェザースプーン夫人を看取り,年老いたウォルトが一瞬であっても夢見たのは,マスターが自分に抱いたのと同じ,もう一度奇跡を起こす少年を育て上げることだった。
奇蹟を起こした本人だからこそ,それがどれだけ儚いものであっても,その魅力に囚われてしまうのかもしれない。いったい奇蹟は,それを起こした本人に幸せをもたらすと言えるのだろうか。・・それもおそらく,本人にしかわかり得ないことなのだろう。しかし,奇蹟の儚さそのものには何度も目頭を熱くさせられてしまったよ。