人間対人間の看護
- 作者: ジョイストラベルビー,長谷川浩,藤枝知子
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 1974/04/01
- メディア: 単行本
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トラベルビーの言う、「病気や苦しみの体験を意味あるものと患者が感じられるよう援助する」という看護の最終目標到達の難しさについて、考えた。
意識回復の見込みなく多くの管に繋がれた状態で何とか「生きている」ような高齢者や植物状態の人に対しても、そのような援助が成立するのだろうか。病気や怪我による苦しみや生活制限によって、現状が維持あるいは改善できるという見込みがない人にまで頑張ってもらうことは、医療者(あるいは家族)のエゴの押し付けにならないか、という疑問がまず一つ。意識回復の見込みがないまま生き続け(させられてい)るというケースなど、確かめようのない本人の意思をどう考えるのだろう・・・しかし、先日ビデオで見た札幌A脳外科病院看護部が行っているようなケア*1が可能であれば、こうした事態も覆せる可能性はあるかもしれない、などなど。
看護者自身が意味を見いだせない生のありようを、患者に意味あるものとして感じてもらえるよう援助するのは不可能・・・その時点でその看護師は役に立たなくなるという指摘はもっともで、私にとってはこのあたりがネックになりそうだ。
トラベルビーを読みながら、母が亡くなってから自分もまた癌に侵された父に化学療法を勧めたとき、「そこまでして生きて何になる?」と言われて答えようがなかったことを思い出した。
自分が看護について学びたいと思ったきっかけの一つは、そのときの父や、医師から意図せぬ余命宣告を受けさせられたときの母に対して、何らかの救いとなる援助・・・看護のありようがなかったのかという自問の延長上にある。それは今なお暗中模索・・・そんな簡単に解決できるもんじゃない。だけど、トラベルビー的看護観の行きつく先に答えがある・・・今はまだ具体的な解答は見えないけど・・・そんな気がする。
[memo]
初期の出会い>同一性>empathy共感>sympathy同感>compassion慈悲>rapport
trust信頼>confidence信任
*1:脳に大きな障害を負い、一度は医師から意識回復の見込みなしと宣告された患者を、ケアによって回復させていった事例