別子銅山

別子銅山記念館。

伯父が勤務していたという縁で、自分名義の都銀口座はずっと住友銀行だった。就職後、全国を転々としてきたけれども、転勤先は県庁所在地で、たいてい都銀の支店もあったせいか、それほど不自由を感じることはなかった。
だが、愛媛では松山には法人営業所しかなく、支店は新居浜にあるという。なぜ?・・・そこで思い出すのは、住友財閥の大きな資金源となった別子銅山の存在だ。既に閉山後30年以上になるが、未だ松山よりも新居浜なのか?!
という些細な事情から気にかかっていた、新居浜別子銅山に行くこととなった。松山から約80キロ。まずは銅山のふもとにある、別子銅山記念館へ。
泉屋時代の住友の古文書、銅製品などの展示から始まって、銅山の歴史や文化などを辿っていく。別子山村での生活を偲ばせる道具や衣類、写真などが数多く展示されていて興味深い。中でも昭和30年代前半に撮られた子供たちの写真が目を引く。みんな小ざっぱりしていて、洒落た服装をしている。ものすごい山の中の、段々畑みたいな社宅の風景。だが、生活ぶりは豊かそうだ。写真の子供たちは、ちょうど企業で定年を迎えている団塊の世代だろう。まさしく日本の産業の栄枯盛衰を目の当たりにして育ってきた人たちなのだなあ、と感慨深い。
続いて採鉱道具や鉱山の模型展示などに目を移す。海抜1000メートル以上の山で、海面下1000メートルまで掘り進めてきたという網の目のような坑道。わき出てくる水との闘い。最後は山跳ね現象でどうしようもなく閉山に至ったというが、坑道の全貌を針金で作りあげた模型にすら圧倒された。
と、かつての第二次産業の迫力に呆然としつつ記念館を出て、さらに奥地の東成地域を目指す・・・が、途中の分岐から急に、「こんなところを車で行くわけ?」というような道になる。ナビではそこから5キロほど先に記念館があるとあるが、とんでもなさそうな山道。ドライバーの夫もヨロついているので、今回は軟弱に引き返して手前の別子マイントピアに目的変更。
道の駅と温泉、小さな鉄道と砂金掘り体験ができる施設などがあるという。が、後から作られた観光用の施設なので、イモ饅頭を頬張りながら鉱山のビデオを見るにとどめる。住友の御用ビデオだろうが、見応えがあって面白い。当時の主要施設はほとんど取り壊され、跡地には植林が施され、今はほとんどが森に還っているという。
不意に八幡平の松尾鉱山を思い出す。あそこは当時の施設がそのまま廃墟として放置され、廃坑から流出する鉱毒水の処理費用は今もなお県の財政を圧迫しているという。この差は何なんだろう。銅と硫黄という鉱物資源の違いによる利益の差か、東北と四国という自然環境の差か、それともバックに付いた企業理念の差か? ・・・などとつらつら考えながら、帰宅した。