Paul Auster "Moon Palace" -7

第1章に戻るが,マーコが最終的なアパートの退去通告を受ける直前に,最後の卵を落っことし自分の中の何かがプツッと切れてしまうシーンがある。その後,彼は「その何か」をなんとかつなぎとめようと,いつも窓からその煌くネオンを目にしていた「Moon Palace」(言うまでもなく本のタイトル)という中華レストランに行き,なけなしの金で食事を取ろうとする。最後の晩餐というわけだ。だがすばらしい食事も,「自分の中の何か」が醸し出す毒のせいで喉も通らなくなる。そんなどん底状態で彼が思い出したフレーズがこれ。ウォルター・ローリー卿が長年幽閉されたロンドン塔の中で,妻に当てた最後の手紙に書いた次のセリフ。
My brains are broken.
ローリー卿はコロンブスとともに,オースターの作品の中で時折登場してくる人物であるが,彼がこの人にこだわるのはやはり,あのロンドン塔に幽閉された時の凄まじい孤独に惹かれるためだろうか。絶望的な孤独とその時の精神状態の崩壊過程に,オースターはこだわり続けているように思う。
ちなみに,ローリー卿とは16世紀のイギリス軍人で,エリザベスⅠ世の寵臣。北アメリカの殖民を行い,その地をヴァージニアと名づけた人物である。アメリカ大陸から,イギリスへタバコとジャガイモを伝えたとも言われている。エリザベスの崩御後,官職を奪われてロンドン塔に幽閉されたわけである。ブラックニッカの髭おじさんがこのローリー卿だという噂を耳にしたことがあるが,真偽のほどは定かではない。