地震・入院・サリン

オヤツは和菓子だ

目覚め7時,起床8時10分。寝床で1時間ほど考え事をする。昨日,U病院の話を書いたらやはり,いろいろと思い出してしまった。1月の震災,2月の入院,3月のサリン。あの年は人生の転機だった。
U病院のベッドの上で,このまま死んでいくのだと思っていた。しょせん,自分の痛みは誰にもわかってもらえない。それは絶望のような大げさなものではなく,諦念,静かな諦めだ。私はこの病院で誰にも看取られずひとり死んでいくのだ,とその時は本当にそう感じていた。もちろん,オットは会社から駆けつけてくれていたが,保育園や会社への連絡で大わらわ(出張中に倒れたので,私の上司との遣り取りも大変だったのだろう)。両親は遠く離れた大阪で,震災の後片づけで大わらわ(商売をしていたから大変だったのだ)。どうしようもない。なぜだか「お母さん,ごめんなさい」と唱え続けることで静かな気持ちになれた。原始的アニミズムは漠然と信じているが,特定の宗教には帰依していない私の場合,精神の支柱は「母」だったのだろう。翌日,震災の片づけも終わらない中,身ひとつでJ大付属病院に駆けつけてくれた母の姿を私は生涯忘れない。さらにそれから数週間,生活がまだまだ混乱している中,両親はアツを引き取って看てくれたのだった。その2人も今はもういない。アツは本当に小さくて,あの時のことはまったく覚えていないと言うけれど,写真を見ながら少しずつ話していってやりたいと思っている。
そして3月のサリン。退院し,アツも連れ帰り,ようやく生活も落ち着いてきたかと思われたときにあの事件は起こったのだ。あのとき私たち夫婦は浦安に住んでいて,オットは霞ヶ関に出向していた。いつもは一緒に出勤していたのだが,その日は朝会議があるというので,早い電車に乗っていった。私がいつもどおり地下鉄の駅に着いた時には,既に混乱のまっただ中。何が起こったのかさっぱりわかりゃしない。混乱のまま会社に着いて,同僚とTVを見てビックリだ。情報が錯綜していて事態がつかみにくいが,毒ガスで人が多数苦しんでいるということだけがわかった。そして,オットの乗った路線でもガスが撒かれていたということも。なんとかオットと連絡が取れるまでは,気が気ではなかった。結局彼は,例の電車の一本後のに乗っていたようである。またしても間一髪。村上春樹の「アンダーグラウンド」,今でも読む度に冷たい汗が出る。ちょっとした歯車の食い違いで,私たちもあの犠牲者の中のひとりになっていたのかもしれないのだ。むしろ,なぜ助かったのだろうかという方が実感に近かった。
地震,入院,サリンのトリプルパンチで,自分の中での価値観が文字通り180度変わった。そんな時,オットが「宮崎転勤」の辞令を受け取ってきた。とにかく東京を離れられるというのが嬉しかった。日向行きのフェリーの中で,家族3人,これから新しい生活が始まるのだとワクワクした。あんな前向きな気持ちで転勤先に向かったことはあれっきり。あの決断が良かったのか悪かったのか。神のみぞ知るだぃ。